« レビュー:Bhargavinilayam | メイン | 再編再録:カンナギは正義を求める(1) »

2011年04月04日

再編再録:ケララ・ムスリム=マーピラについての覚書

Patturumala.jpg

patturumala または thattam と呼ばれる古風な頭巾をまとったシュウェちゃん、Paradesi (Malayalam - 2007) Dir. P T Kunhi Muhammad から。この独特のヒジャブのイメージはケララ情緒100%だが、実際に現地で目にすることはまれ。現在では映画の中だけでの分りやすい記号のように思える。シリアン・クリスチャンのマランカラ派の女性が身につける巨大なイヤリング(mekkamothiram または kunukku というらしい、こちら参照)と同じように。

******************************************************************

最初にお断りしておきたいが、筆者はもちろん歴史研究者ではない。民間の歴史ファンですらないと言ったほうがいい。なので以下に書くことに学術的な妥当性を求められても困る。大航海時代以前の文献資料など存在しないに等しいケララにおいて、史料によって裏付けることができるそれ以前の事象は大変に限られている。半ば、というかほとんど全てが伝説の類だと思っておいたほうが無難だ。ただ、人々が自分たち自身の物語をどのように規定しているかを知るのは、それはそれで意味のあることだと思っている。これをさらっと読めば、筆者が映画を見る作業の中で何にウケたり何に仰け反ったりしてるのかも分っていただけるかと思い、消滅した過去記事に手を加えて再アップした。Kilichundan Mambazham (Malayalam - 2003) Dir. Priyadarshan 公開の前後に書いたものを基にしている。

【マーピラとは】
マラヤーラム映画界は、ムスリムやクリスチャンが主人公で、かつ宗教対立やマイノリティ問題をテーマとしないフツーの娯楽映画が製作される場所としては、現在のインドでは唯一かもしれない(このあたりについては過去に Balancing Act として書いた)。ケララ州の宗教別人口比は大雑把に言って、ヒンドゥー:ムスリム:クリスチャンが56:24:19。ムスリム人口は特に州北部に多く分布している(※1)。後二者には、近世以降のヒンドゥー低位カーストからの改宗者が多く含まれている。しかし少なからぬムスリムは、自らのルーツをムハンマドによる創宗直後にインドに渡ってきたアラブ人とみなし、ペルシャ・アフガン系の征服王朝下で改宗した北インドのムスリムとは一線を画すものととらえている。またクリスチャンも、大航海時代のヨーロッパ諸国による布教のはるか以前にやってきた、一二使徒のひとり聖トマスの教えに従ったシリア・クリスチャンの末裔であるとの矜持をもち続けている。

moplah(マラヤーラム語ではマーピラmappila、mappilla)は広義にはケララ・ムスリム全般を指し、より限定的にはマラバール地方(※2)のムスリムを意味する(※3)。現在のケララの公的な歴史ではあまり触れられることはないが、近世には海賊として盛名をはせた者も多く、またヒンドゥー教徒(特に戦士カーストであったナーイル)と殺し合いを繰返していた時期もあった(※4)。また、1921年のMappila Rebellion(英国支配階級と結託したヒンドゥーの地主をムスリム農民が襲撃して殺害した事件)は一般には対英独立闘争史の重要な一ページと見なされているが、蜂起した者の中には、ジハードを唱える過激派メンバーがいたのも事実。(※5)。

マーピラ・コミュニティには独自の文化が育まれており、特にマーピラ・マラヤーラムと呼ばれるアラビア語の語彙を多く取り入れた方言と、マーピラ・パーットゥ(mappila pattu = mappila songs) に代表される芸能はケララ・ムスリムのアイデンティティの核となっている(※6)。今日ではケララ全域に分布するマーピラだが、マラバール地方、特にマラップラム県はマーピラ文化の原郷とみなされている地域(※7)だという。

20世紀に入って盛んになった北インドやパキスタン地域との間の往来、またここ30年ほどの湾岸諸国への出稼ぎの影響もあり、今日のマーピラは文化的な孤島状態にあるわけでは決してない。しかし、家族制度の一部や命名法、料理などの生活文化には、他の南アジアのムスリム世界、あるいはケララの他のコミュニティとは異なる独自の表徴がいまだに見て取れる。

※1 マラバール地方の総人口のうち67%がムスリムという。またケララ・ムスリムはスンニ派が圧倒的。民族的、職業的な違いによって細かいセクトに分かれている。
Kerala Muslims had several subdivisions. Some of these subgroups are known by such names as dakkini, labba, Kachmeman, nainar, ravuthar, marakkar, and koyimar. The dakkini group are descendants of the armies of sultan of Bijapur. Labbas are traders. They live in Kerala as well as Tamil Nadu. Labbas are of Arabic extraction. Ninars are believed to be converts from the Drawidians. Ravuthars were active in trade. Muslims of Malabar are collectively referred to as 'Mappilas'. Kachumemons are descendants of traders of Gujarati origin. Another group called vattakolikal are of Arab decent and are mostly traders. They are also called navathukal. Koyimar originated in the area of Malabar called chowa and played a major role in internal and external trade. (Ananthapuri.com, Muslims of Kerala より)

※2 行政上14県に分かれるケララ州だが、文化的な区分としてのマラバール(北部)コーチン(中部)トラヴァンコール(南部)の3つの地方名はよく使われている。マラバールは本来ケララ州全域を表す語だったらしいが、イギリス支配下の行政区分としてマドラス管区マラバール県が制定されて以降は、より限定的な地域を示すものとして定着した。3地方の区分けはこちらを参照(ただし、今日の行政界線と一致しない細かい区分けは思い切り省略しているので注意)。また英領時代のマラバールの詳細な地図はこちら
※3 コーチンやトラヴァンコール地方のムスリムのことをシャーフィ(shafi)と呼ぶこともある。また、マーピラの語源には諸説ある。有力なのは、外の世界からやってきた客人に対する尊称だという説、それから(親の立場からの娘の)婿に対する呼びかけだという説など。なお、この語を姓としてもつのは主にクリスチャンであるという。またタミル語地域ではマーピライ(マープレ)は宗教的コミュニティ区分とは無関係に婿の意味で使われ、さらにはそこから若い男性一般への呼び掛け語となり、日常でもよく用いられている。
※4『千夜一夜物語』の英訳者でもある探検家リチャード・バートン(1821-1890)による、そうした現代的な気遣いとは無縁のインド紀行 ‘Goa and the Blue Mountains’ の中の一章に、そのあたりが活写されている。
※5 この事件を扱った映画もある。1921 (Malayalam - 1988) Dir. I V Sasi
※6 今日のケララ・エンタメ界で大きな旋風を巻き起こしている素人の勝ち抜き喉自慢ショー(いわゆるリアリティ・ショー)でも、マーピラ・ソングで勝負するムスリムの挑戦者は結構多いみたいだ。たとえばこちらのサイトで視聴が可能。http://www.mappilatube.com/
素人耳にはマレーシアの伝統歌謡との類縁性が強く感じられる(特にザピンと酷似したリズムが印象に残る、もちろん大元はアラブなのだが)。実際に少なからぬマーピラが半島マレーシアに渡り、コミュニティを築いているようだ。現在は消滅してしまったマレーシア発のマーピラのサイト、e-malabari の中には以下のような一節があった。
Certain aspects of Kerala history gives it a 'South East Asian Personality' - as described by Charles A. Fisher in South East Asia: a Social, Economic and political Geography-the tropical climate, the plentiful water supply and regular monsoons, dispersed settlement and communication by the river, the large degree of rice and coconut cultivation, and port cities functioning as entreports for the passage of merchandise from the West and East.

※7 上述の Kilichundan Mambazham1921 の他に、当サイトで紹介した作品では Oneway Ticket (Malayalam - 2008) Dir. Bipin Prabhakar もマラップラムを舞台としたマーピラ映画。

******************************************************************

【ケララ・ヒストリーのイスラームな出来事とその周辺】
[前史] デカン高原以南の現在の南部4州の要部が一つのドラヴィダ文化圏=大タミル語圏だったサンガム時代(CE1~3世紀、ちなみにカンナダ語の現存する最古の文学は9世紀のもの、テルグ語のそれは11世紀、マラヤーラム語となると13世紀まで下る)、すでにチェーラ王国(今日のケララ)には西方世界との交易の拠点がいくつかあり、アラビア商人も多く訪れていた。
[伝説] タービイーン(初期のイスラーム布教者)のひとり、マーリク・ビン・ディーナールのケララ来訪と布教開始。ムハンマドが啓示を受けてからわずか30余年後、643年のこととされている。
[伝説] チェーラ朝最後の王、チェーラマーン・ペルマールがイスラームに改宗し、領土を分割して自らの王権を放棄し、メッカ巡礼に赴く。王は628年にムハンマドからの手紙を受け取って帰依したという。アラビアでは預言者その人に会ったとも。ただしチェーラマーン・ペルマールの治世については4世紀説から12世紀説まであり、曖昧模糊としている。この名前自体がチェーラ朝の王の称号でしかないので、実際にどの王だったのか、研究者の間でも意見が一致していない。また彼が改宗したのはキリスト教だったという伝説もあり、一方でシヴァ派の熱心な帰依者だったという言い伝えもある。他に仏教改宗説、ジャイナ教改宗説まであり。
[なかば伝説] 629年、中部ケララのコドゥンガルール(クランガノール)にはじめてモスクが建設される。
[なかば伝説] 北部ケララのカンヌール(カンナノール)でアラッカル家が権力を掌握し、ケララ史上唯一のムスリム王国が成立する。8世紀とも12世紀ともいわれる。
[1124年] 第二次チェーラ朝の崩壊。以降ケララ地域は多くの土侯が支配する地方(nadu)に分裂して互いに覇を競い合う。上記伝説のチェーラマーン・ペルマールによるチェーラ王国の分割は実際にはこの時期のことだったという説が有力。
[1183年] アラッカル家のアジ・ラージャーがモルディヴ諸島を制圧。
[13世紀] コーリコード(カリカット)地方でサムーディリ(ザモリン)家が台頭し、一帯の領主となる。ザモリンはヒンドゥーだったが、海外交易の利益を独占するためアラブ商人への優遇政策をとり、アラブ人の定住を奨励した。またヒンドゥー下位カーストのイスラームへの改宗にも寛容な態度でのぞみ、ときには奨励すらした。ザモリンの保護下で、ムスリムによる海軍が組織され、彼らにマラッカルMarakkarの称号が付与された。マラッカルたちは、防衛と共に貿易にも従事し社会的・経済的に躍進した。13世紀から15世紀にかけてコーリコードは南のコッチ(コーチン)王国と鋭く対立しながらも勢力を拡張していった。それにともない、ムスリム人口もコーリコードからポンナーニなどの周辺部、さらにパーラッカード(パルガート)など内陸地域へと拡大していくこととなった。
[1343~1345年] アラブの紀行家イブン・バトゥータのケララ(コッチ、コーリコード)滞在。多数の裕福なムスリムの暮らしぶりを書き留める。
[1498年] ポルトガル人、ヴァスコ・ダ・ガマのコーリコード到達。香辛料などの通商権独占を求めるが、ザモリンはこれを拒否する。ザモリンと対立するコッチ王国と同盟し、4年後の1502年に再びやってきたポルトガルはマラッカルとの間で戦闘を開始し、圧倒的な火力で勝利する。
[1540年] ポルトガルに屈服したザモリンは、コーリコードでの交易独占を認める。これによってムスリム商人の特権が崩れ去る。多くのムスリムが内陸地方へ移住を余儀無くされ、ヒンドゥーの地主のもとで小作農民となったり、沿岸部に残ったものも漁民となって細々と生計をたてる状況に追い込まれた。
[1664年] ザモリンの後ろ楯を得たオランダ東インド会社がポルトガルを駆逐し、マラバールの通商権を握る。
[1684年] 北部マラバールのタラッシェーリ(テリッチェリー)にイギリスが商館を開設。これ以降、イギリスによるマラバールの蚕食が徐々に進行していく。
[1766年] マイソール藩王国のハイダー・アリによるケララ北部への侵攻。マラバール・ムスリムは侵略に徹底的に抗戦したものと、ムスリム支配者を歓迎したものとの二派に分かれた。
[1782~1792年] マイソール藩王国のティープー・スルターンによる統治。この期間中、北部支配地域(カンヌール、タラッシェーリ、コーリコード、マラップラム)ではバラモンやナーイルなど高位ヒンドゥー教徒の多くが強制的にムスリムに改宗させられた。
[1792年] イギリスがマイソール勢力を駆逐し、マラバール地方での支配権を確立する。これ以降、同地域はボンベイ管区マラバール県となる。またケララ・ムスリムの経済的・社会的な落ち込みが進行する。
[1801年] マラバール県がボンベイ管区からマドラス管区に移管される。
[1832年] マラバール県で大地震。この災害はその後の飢饉とあいまって、ムスリム零細農民を直撃し、コッチ、トラヴァンコール地域への移民が急増した。
[1877年] ヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国の成立。英国統治時代、現ケララ州地域は北部がマドラス管区マラバール県、中部と南部がそれぞれ英国「保護下」のコッチ藩王国、ティルヴァタンコードゥ(トラヴァンコール)藩王国として三分されていた。
[19世紀末~20世紀初頭] 英国によってマラバールに導入されたライーヤットワーリーと呼ばれた徴税制度によって、ヒンドゥー地主層とムスリム小作人層との間に対立が深まり、暴動が散発的に起こるようになる。
[1919~1924ごろ] キラーファット運動の高まりがケララにも波及。国民会議派主導の独立運動と連携する。しかし先鋭化したマーピラの中からはケララ南部に独立したムスリム国家モプラスタンMoplahstanを要求する主張までもが出現し、当初マーピラ農民に対して同情的だったヒンドゥー運動家からの支持を失う結果になる。
[1921年] マーピラの反乱 Mappila Rebellion (Mappila Lahala)。地主の横暴にフラストレーションをつのらせたコーリコード地方のムスリム小作農民が蜂起し、地主の邸宅、官庁、警察署などを占拠し、多くのヒンドゥー教徒(とはいえ、被害者のなかにはムスリムの警察官やクリスチャンも含まれていたらしい)を殺害した事件。詳しくはこちら参照。
[1937年] マラバールで初のムスリム政党ムスリム・リーグの成立。
[1947年] インド独立。
[1956年] ケララ州の成立。
※近世以前の年号に関しては資料により数年の幅がある場合が多い。だいたいの目安ということで。

このエントリーの主要な参考資料
■Ananthapuri.com, Kerala History Series, Muslims of Kerala
Mappila Muslims of Kerala, a study of Islamic trends, Rolland E Miller, 1992, Orient Longman
■A Survey Of Kerala History, A Sreedhara Menon, 2006, S. Viswanathan Pvt. Ltd.
People of India - Kerala, K S Singh (ed.), 2002, Anthropological Survey of India, Affiliated East-West Press Pvt. Ltd.

Photobucket
コーリコードのマーピラの最初期の居住地といわれるテッケプラム(Thekkepuram)地区にある、巨大な木造のミシュカル・モスク。14世紀の創建とされる。このようなモスクらしからぬモスクはケララでもそれほど多くはない。湾岸出稼ぎが盛んになった1970年代以降に建造されたモスクは、ほとんどが石造またはコンクリートでドームを戴く万国共通の建築様式となっている。

投稿者 Periplo : 01:51 : カテゴリー バブルねたkerala

コメント

The Muslims form an integral part of the community. They owned an entirely different dressing culture. According to their religious concept only the women’s face and palms should be visible in front of outsiders. In olden days they wore a piece of white cloth called ‘Kachimundu’. It didn’t have a silk border but blue and purple coloured borders. It covered from waist to ankle. They covered their head with a piece of cloth called as Thattam. But in the very olden days it was called as ‘Patturumala’. Both cotton and silk material were used for this. The upper part was covered by a long blouse ( shirt like without collars) with full sleeves. This type of dress was known as Kachi and Thattam.

The Mappilla men’s ordinary dress was mundu or cloth generally with white or purple border or orange, green or plain white. It is tied on the left (Hindus tie it on the right) and kept in position by a waist string to which are attached one or more elassus( small cylinders) of gold, silver or baser metal, containing texts from the Koran or magic chants. They used shirt along with mundu. A small cap of white or white & black is very commonly worn and round this an ordinary turban or some bright coloured scarf may be tied. Mappillas shave their head clean. Beards are worn frequently especially by old people and “Tangals” (Religious person in Mosque). Hajis or men who have made their pilgrimage to Mecca and other holy men often dye the beard red.
http://visitakerala.wordpress.com/2006/12/05/fashion-history-2-muslimx/

投稿者 Periplo [TypeKey Profile Page] : 2013年03月06日 15:18

投稿者 Periplo [TypeKey Profile Page] : 2013年03月06日 15:20

コメントしてください

サイン・インを確認しました、 . さん。コメントしてください。 (サイン・アウト)

(いままで、ここでコメントしたとがないときは、コメントを表示する前にこのウェブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)


情報を登録する?