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2014年04月30日

資料系アップデート:1404

薄い本なのに歯ごたえありすぎて、正直なところ随分てこずった。

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三大巨頭揃い踏みイメージがないものかと随分探したけど結局見つからず。

cvCinepolitics.jpgCine-politics - Film Stars and Political Existence in South India
著者:M. Madhava Prasad
版元:Orient Blackswan, New Delhi
発行:2014年(初版)
版型:A5版
頁数:210
主な販売サイト:Amazon.com ほか
定価:Rs.625-(インド国内)
コンテンツ要約:版元サイト上にあり
掲載図版数:8
言及される映画の本数:136本 

タミルのMGR (1917-1987)、テルグのNTR (1923-1996)、カンナダのラージクマール (1929-2006)という、南インド映画史の3人の巨人と政治との関わりを詳説し、南インド独特の政治現象を説明するのに「シネ・ポリティクス」という新たな力学を提唱する快著。

MGR、NTR、ジャヤラリターなど、映画俳優が政治家に転身して州首相にまで登りつめる南インドの現象は、ジャーナリストや学者の興味を惹き、多くの記事や論文が書かれてきた。それらはほとんどがナショナル・ジャーナリスムの中心であるデリーをはじめとする域外の観察者によるもので、基本的には愚民史観と言うべき単純なものだった。

つまり、映画と現実の区別がつかない愚かな大衆が、正義のヒーローあるいは無謬の神を演じるスターと役柄を同一視して政治の頂点に押し上げてしまうというもの。あるいは、行動主義心理学の手法による分析として、スターはプロパガンダ的メッセージの担い手にすぎず、メッセージが効果的に深く浸透したことによって担い手であるスターがトップに担ぎ出されることになったとするもの。

しかしこれらでは、なぜ南インドでだけこうした現象が起きたのか、またなぜ(演劇などの他の分野ではなく)映画の世界がその舞台となったのかが説明できない。そこには、中央に対抗する強烈な言語的アイデンティティーを持つ南インド、そして1930年代のトーキー化と1956年の言語州の理念に基づく州界再編という出来事の絶妙なタイミングによって可能になった、より精緻なシステムが存在しているのではないか、というのが著者の立場。

■MGR
MGRstatue.jpg20世紀初頭にタミル地方で勃興したドラヴィダ民族主義運動が、実際のところは都市におけるバラモンの権力独占に異議を唱える非バラモン中間層エリートの政治闘争に端を発するものであり、ダリトなどの底辺階層には冷淡であったことは広く知られている。一方でこの運動は、正義党(1917-1944)~ドラヴィダ連盟(DK、1944-)~ドラヴィダ進歩連盟(DMK、1949-)の各時代を通じて理論家には事欠かず、反バラモン、反中央、反ヒンディー語、反会議派といったイデオロギーを次々と打ち出していった。中でもDMKは大衆に直接訴えかける手段として映画を重視し、そのプロパガンダを目的として製作された一群の作品はDMK映画として知られている。シヴァタンビによれば、DMK映画は2つのフェーズに分けられるという。第一期は1948-56年の約10年間。この期間は「社会批評」の時代で、アンナードゥライやカルナーニディといった脚本家が舵を握っていた。第二期の1957-77年は、MGRがDMK映画というジャンル全体を支配した時代である。

1967年にタミル・ナードゥ州首相となったアンナードゥライは、既にその時点で一党員でしかないMGRのカリスマが肥大しすぎていることを懸念していたという。その死後、カルナーニディは激烈な党内抗争でMGR派閥に打ち勝って後続党首・州首相となる。その後もMGRをターゲットとした様々な攻撃を仕掛け、その勢力の弱体化を図る。MGRは1972年にDMKを脱退して自前政党ADMK(後にAIADMK)を創設し、1977年選挙でDMKを蹴落として州首相に就任する。この一連の成り行きを後押ししたのは何だったのか。

各種の目覚ましいイデオロギーを掲げながらも、DMKは実質的には極めて狭隘な特定カースト/階層の利益代表政党だった。DMKが支持者を拡大すればするほど、この表看板と実態の乖離は広がるばかりだった。そうした中で、(スリランカ引き揚げのマラヤーリーであり、極貧の中に育ち、高等教育も受けていない)MGRは、革命の体現者として演じ続け、特定層の権益とは無関係なユートピア的ドラヴィダ民族主義の想像上の代表者となったのである。MGRは多くの夢追い人を引き連れてDMKを後にした。MGRのADMKはインド史上初めての、利益を体現せず願望だけを体現した政党となったのだ。

第一期のDMK映画は、プロパガンダとしての映画の利用であり、脚本家の完全なるコントロールの下にあった。第二期のそれは、MGRのスター人格が主導し、脚本もイデオロギーも、全てがMGRを中心に回るというものだった。党のメッセージを彼が担うのではなく、彼自身がメッセージとなったのだ。

第一期から第二期への移行は、奇しくも南インド映画における「スタジオ・スタイル」(別名マドラス・プレジデンシー・スタイル、つまりハリウッドの初期のモデルに近いもの)から「男性スター中心スタイル」への移行と一致するものだった。著者によれば、その転回点となったのは Nadodi Mannan (Tamil - 1958) で、後者が完成型となったのは Nam Naadu (Tamil - 1969) だったという。この作品から、主演俳優たるMGRはストーリーラインの上に立つ超越的なアイコンとなったのである。そしてこの変異はMGR本人や党中央が意図して企んだ作為的プロセスではなかったのだと本書は断ずる。

南インド各言語の映画界で、こうした流れと並立したのは、二大男性スターによる分業という現象である。広範な大衆から支持を受け政治的な代表者となるアクションスターと、中産階級に支持されるクオリティー追求型の演技派スターである。念のため付け加えるならば、これはアクションスターには演技力がなく、演技派スターには身体能力がない、ということでは必ずしもない。にもかかわらず、いつのまにか分業の体制が定着してしまうのだ。タミルではMGRとシヴァージ・ガネーシャンがそれぞれの代表格と見なされた。そして、いつの時代のどの地方であれ、人々の口にこうした二人の名前が上る時は、必ずアクションスター/演技派スターの順番であるというのは、大変に示唆に富んでいる。

■NTR
NTRstatue.jpgNTRは1982年に自前政党テルグ・デーサム党(TDP)を立ち上げ、翌1983年に、それまで政権を独占していた国民会議派を蹴落とし、州首相に就任した。それ以降、合計3期の政権を担当したが、1995年に娘婿のチャンドラバーブ・ナーイドゥの党内クーデタによって失脚し、1996年に失意のうちに死去した。政界入りを決意したのは、1981年のとあるインタビューで、来る60歳の誕生日に(今日の地位を与えてくれた)テルグの人々に何か恩返しをするプランがあるかと問われたのがきっかけだった、というのが広く流布された説である。その真偽には立ち入らないが、州内外の誰にとってもNTRの政界入りが青天の霹靂だったことは確かだ。ここでは、それまでの年月にNTRが映画の中で培ってきたシネ・ポリティクスについて検証する。

テルグ映画界では、上のMGRの項で述べた分業体制はNTRとANRによって担われた。MGRと異なり、NTRの俳優としてのキャリアの大半は政党や選挙政治とは無縁だった。しかしそんな彼にあっても、シネ・ポリティクス現象は1960年代に既に明らかなものになっていた。まず、災害に際しての義捐金集めにおいて映画界でのリーダーシップを発揮した。1960年代はまた、テルグ映画界にとってもナラティブの構造がポピュリズム的なものに変容した時期である。初期にフォークロア映画 Patala Bhairavi (Telugu - 1951) で成功したNTRは、(エモーショナルなメロドラマの演技に長じているとされたANRに対して)「ハンサムなアクション俳優」と見なされるようになり、その後ソーシャルや神話映画でヒットを飛ばしてもそれは変わらなかった。

スタジオ・スタイル時代のソーシャル映画は、今日のそれとは大きく異なり、社会的・啓蒙的なメッセージを含み、複雑なプロット構造をもち、しばしば女優がストーリーとアトラクションの中心を占めるものだった。それに対してフォークロアはまず何よりもヒーローによるアクションを売り物としており、教育のない低所得者層に最もアピールするものと見なされていた。しかしこのジャンルは1960年代半ばから徐々に衰退していく。同時期に起きたのがジャンル混交という現象である。正確にはソーシャル映画がフォークロアの諸要素を取り込んだといったほうがいい。ソーシャル映画に派手なアクション・シーンが配され、ストーリーが主演男優を中心に展開する、今日のそれに近いものに変容したのだ。このジャンルでのNTRの初期の代表作 Kathanayakudu (Telugu - 1969) は、奇しくも上述のNam Naadu としてMGR主演でリメイクされることとなった。70年代以降のNTRは、フォークロアや神話映画からソーシャルへと、完全に重心を移すこととなる。

ここで留意したいのは、ジャンル混交によってソーシャルにフォークロア的要素が導入されて娯楽性が強まったからといって、ソーシャルが社会批評的要素を失った訳ではないということだ。社会批評の提示のされ方が変わったのだ。人々の言語的アイデンティティの代表者としてのNTRのスクリーン人格が、個々の映画作品の上に位置づけられるようになり、観客はどの作品にもリーダーとしてのNTRを見るようになったのだ。そこでは、物語の開始後すぐ、主人公が登場した瞬間から(つまりまだ何事も成し遂げていない時点から)、NTRこそがリーダーなのだと観客に直感させるさまざまな映画的デバイスが駆使されることになる。つまりこれは、「政治と映画」という視点で語られれば済むものではすでになく、むしろ「政治としての映画」と呼ぶべき現象なのだ。

■ラージクマール
RajkumarStatue.jpg3人の中で一番若いラージクマールは、選挙政治の世界に足を踏み入れることを生涯拒んだと言う点で特異である。1982年からのゴーカーク・アジテーションにおいては、当初文化人サークル内だけの細々としたキャンペーンだったものを、その参入によって一気に大衆運動にまで押し上げた。この時点で、ラージクマールは言語を核としたカルナータカ民族主義の代表者となり、そのシンボリックな力は死後の現在も衰えていない。ゴーカーク・アジテーションの前後から、多くの政党・政治家、それに無数のファンが、ラージクマールの政界入りを懇請したが、巨大なプレッシャーを撥ね退けて彼は選挙政治との距離を保ち続けた。

シネ・ポリティクス的観点に立てば、俳優の政界進出や州首相就任はあくまでもシネ・ポリティクスに派生する現象で、究極形態ではない。シネ・ポリティクスは選挙政治に従属するものではなく、現実の政治システムを補完する、仮想ではあるが現実世界に影響を及ぼす可能性を持つシステムなのだ。そうした前提に立てば、一度も選挙に出馬することがなかったラージクマールのケースは、シネ・ポリティクスの最も純粋な表れと言えるかもしれない。

カルナータカ州では、タミル・ナードゥやアーンドラ・プラデーシュと異なり、地域主義を謳う政党の伸長は低調だった。最初期の動きとして、国民会議派を脱退した元州首相デーヴァラージ・アラスによる、1979年の Kannada Kranti Ranga (KKR) の旗揚げがあったが、この党は長続きせず、ジャナター党に吸収されて終わってしまう。しかし、1982年には、カンナダ語を州内(行政や教育の場)で最優先のものとしようとする運動(ゴーカーク・アジテーション)が、地域ナショナリズム現象として続くことになる。これは、上記を勧告した諮問委員会の文書(ゴーカーク・レポート)をないがしろにしようとした会議派州政府への反対キャンペーンだったが、ラージクマールが請われて参加して以降、熱狂的な大衆運動として燃え上がった。運動の事実上のリーダーとなったラージクマールの巨大な影響力に屈して、州政府はゴーカーク・レポートを原則として承認することになった。この時、ラージクマールが政界に出馬していたら、カルナータカの政治地図は全く違ったものになっていたかもしれない。しかし実際には、以降の州政権は会議派、ジャナタ―党、ジャナター・ダル党、BJPという全国政党によって担われ続け、地域主義政党は大衆的支持を得ることができずにいる。

ゴーカーク・アジテーションはラージクマールのシネ・ポリティクスの現れの頂点だったが、そこに至るまでにはどのような道のりがあったのだろうか。転換点はやはり1960年代だった。1960年代を通じて、ラージクマールは出演作において「カンナダの守護者」という役割を担う機会を増やしていった。そして、古くからの良き価値を守るだけでなく、バンガロールのような現代的な都市空間の中でカンナダ人がどのように立つべきかを彼が身をもって示した(そして選挙に打って出て市長になるというプロットも含む) Mayor Muthanna (Kannada - 1969) は、それを決定的なものとしたのだった。

ラージクマールの場合に特異だったのは、他の2地域と違い、カンナダ映画界にはアクション・スターと演技派スターの並立がなかったということだ。ラージクマール自身が双方のタイプの役柄を申し分なく演じたこと、そしてカンナダ映画界の相対的な規模の小ささといった要因によるものと思われる。中産階級にアピールするロマンスものに特化した後者のタイプの俳優としてはウダヤ・クマール、カリヤーン・クマールなどがいたが、キャリアの最初期においてこそ彼らはラージクマールのライバルと見なされたものの、やがて後退し、彼ら自身も「ラージクマールのファンである」ということをラージクマール・ファンクラブの前で公言することとなる。このファンクラブ、Karnataka Rajkumar Premigala Sangha は1977年に発足し、1983年に Akhila Karnataka Dr. Rajkumar Abhimanigala Sangha の名のもとに改組され、ラージクマールのシネ・ポリティクス的なリーダーとしての地位を固めることに貢献した。ここにおいてのファンとスターとの関係というのは、域外の観察者が決めつけたような、単純な模倣要求(スターの髪型や衣装を真似る)や宗教的献身(神話映画で神を演じたスターを神と同一視する)とは異質のものである。ファンはラージクマールをカンナダという言語的なグループの一体性を象徴するリーダーと見なし、王に対する忠臣のように奉仕したのである。

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以上が、本書の中核をなす3つの章の要約である。抽象的で説得力に乏しいと感じられる読者がいたら、それは当網站筆者の責任である。実際には、南インド3州のカースト構造から、映画産業の発展の各段階、実作品の構造分析に至るまでの、豊富な、そして要約不能な具体的記述が満載な本なのだ。ひょんなところで日本のテレビCMに登場するハリウッド・セレブの話なんてのまで引き合いに出されていて興味深い。

本書では上記の3人以外に、さらにジャヤラリター、ラジニカーント、(NTRの後妻)ラクシュミ・パールヴァティについても若干の言及あるいは分析がなされている。また、ここまでお付き合いいただいた読者は、なぜ南インド4州ではなく3州なのか、ケララはどうなっているのか、という疑問を当然もつものと思う。本書では脚注(P.17)において若干の言い訳が記されているが、なぜケララでだけはシネ・ポリティクス現象が起きなかったのかというのは、巨大なテーマである。いずれ気鋭の研究者によってマラヤーラム映画の謎が解き明かされる日を待つばかりとしか今は言えないようだ。

著者のMマーダヴァ・プラサードは、ハイダラーバードの English and Foreign Language University の教授、詳しくはこちらを参照。本書のコンテンツに最も近い内容の論文でオンラインで読めるものとしては、Cine-politics: On the Political Significance of the Cinema in South IndiaCinema as a Site of Nationalist Identity Politics in Karnataka などがある。また、Enthusiasm and Indian Politics: Problems in the Analysis of Aural Culture と題したレクチャー動画もある。

投稿者 Periplo : 23:47 : カテゴリー バブルねたsouth
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